かわらばん2021年9月号
建築家・乾 馨は、勝山市國泰寺に生まれ、福井高等工業学校卒業後、台湾総督府営繕課に就職し、同課長・大倉三郎(戦後、京都工芸繊維大学学長)の指導を受ける。台湾にて終戦を迎え、勝山に帰郷。県建築課技師を務めたのち、民間の立場から故郷の復興に役立ちたい決意のもと、県内初の「アルス建築事務所」を1949年4月1日設立し、県内外の若き学生を多数受け入れ「アルス学校」とも呼ばれた。建築技術と芸術の一体化を志向し、モデルとなるRC造の学校建築、「松文産業社宅」等の生活様式も提案したほか、「金津町農協会館(1968年・中部建築賞)」等設計。1962年に県建築士会第2代会長に就任し、会員のさらなる品位・技術の向上を目指す。大倉三郎が、松尾芭蕉の『不易流行』を引用し、建築のあるべき姿を語るのを受けて、地元の伝統をふまえつつ、新しいものを取り入れる乾 馨の姿勢は、事務所に在籍した仙坊光男、畑山實をはじめ、次の世代に受け継がれ、復興期から高度成長期の郷土を支えた。(廣瀬)
乾 馨のことば
我々はこゝにおいてハツキリと自己の使命を自覚して、社会と共に生きる建築士になることを認識して、各々が郷土の為に貢献する覚悟があれば建築士と社会は必ずや不即不離の関係を生じてくるものであって、我々建築士の前途は洋々たるものがあると堅く信ずるものである。
「論説:私はかく思ふ 『福井建築士』 創刊号(1952年)」


