かわらばん2022年1月号
戦後の福井市では、戦災・震災からの復興が着実に成し遂げられていたことに対し、芦原温泉街では1956年4月に大火が襲い、旅館26軒中16軒が焼失して、明治以来の伝統ある温泉街は壊滅し、旅館の再建と都市計画的復興が進められ、福井市で活躍していた建築家に加え県外からも参入した。五十嵐直雄が担当した「いろは」は、洗練された面構成により実現した開放的な内部空間と3階層の重厚感を感じさせない真壁の意匠論が発揮された外観で実現し、伊藤貞の「米和」は、窓枠が際立つ白黒壁面の対比が印象的な外観で、伝統とモダンを調和させる持ち前の設計手法によって設計された。更に嘗て分離派建築会のメンバーで知られた山田守が象徴的な展望台が印象深い「有楽荘」を構成的な造形で設計し、一方、数寄屋大工・平田雅哉の「つるや」は、伝統和風のディテールを独自のスケール感覚による大空間で実現した。この他に「べにや」「八木」「開花亭」なども合わせて当温泉街は、新たに生まれ変わり、再び歩み始めたのである。なお、県建築士会誌・第10号(1958)にて芦原温泉復興特集で紹介された。(朝日)



